かつて『徳丸田んぼ』と呼ばれ、23区内で最大の収穫量を誇る大稲作地帯だったこの土地に高島平団地が登場したのは、昭和41年、終戦後の深刻な住宅不足にあえぐ状況下でのことだった。そんな中、高島平団地は当時420万戸といわれていた住宅不足を埋めるマンモス団地として、政府の期待を一身に集めて登場したのである。
このころ集団住宅のひとつの考え方として注目を集めていたのが高層住宅だ。つまり、同じ広さの土地を使うのなら、住宅を上へ上へと伸ばしていけばそれだけスペースがかせげるというわけだ。政府の説明では、その分、緑いっぱいのオープンスペースが確保できるので、充実した住空間を確保できるということだ。
確かに緑は増え、オープンスペースは災害の際の避難所として都市防災に貢献したが、日照条件などの居住性の水準低下は止められなかった。つまり高層団地は、緑をとって太陽を切り捨てたのだ。
建物と建物の間はうす暗い影になった。
そんな環境に誘われてか、この場所はご存じの通り自殺の名所として知られることになってしまった。
そのきっかけを作ったのは、昭和52年の親子3人の飛び降り心中だったといわれている。以後、団地内には世をはかなんだ自殺志願者が次々と日参するようになり、当時年間10人だった自殺者も、昭和55年には20人を突破。57年までの累計で100人に達する自殺者を出すことになった。
中には、このおびただしい自殺者は人口増加にともなう自然淘汰だ、などと恐ろしい考えを表明する人もいた。つまりその人によると、自殺者たちは東京に「間引き」されたというわけだ。
さて、そんな昭和55年4月30日。その夜、夕方から降りだした雨は、まだシトシト路面を濡らしていた。都内板橋区に住むS子(30歳・家事手伝い)は、高島平のレジャーセンターに出掛けた母親と伯母を迎えに車で団地のあたりを通っていた。いつもは走りなれた道だったが、その夜はなぜか様子がおかしかった。どういうわけか、車は広大な高島平団地の敷地をぐるぐるまわるばかりなのだ。
やっとのことでたどりつき、後部座席に母親と伯母を乗せて西台交差点にさしかかった時にはもう10時を過ぎていた。S子の証言。
「そこで車を右折させようとしたその時でした。あたりが急にモヤがかかったように暗くなったかと思うと、運転席の窓際すれすれの路上に、鮮やかなグリーンの光がパァーッと輝いたんです」
視界が定かでないので、それを中心点の表示灯だと判断したS子は右側にハンドルを切った。すると、運転席の窓のすぐ外に、全身白ずくめの女がぴったりと張りつくように立っているではないか。
「危ない!」
ブレーキを踏んだ。が、不思議なことにその白い女は、相変わらず運転席の窓の外に身動きせずに立ちつくしている。
「胸のあたりに白い傘の柄と、これも白くて半透明のレインコートが見えましたが顔は見えません。それにしても不思議な感じでした。その顔をしっかり見たはずなのに、今、思い返してみると、どんな顔だったかどうしても思い出せないんです。そう言えば、体の輪郭もどこか透けているようで、実在感がありませんでした」
やがて車を出すと、その白ずくめの女は去っていった。後日、それが幽霊だと気づいたのは、S子が昼間にその交差点を通った時である。
交差点には、あの時見た、緑の光を出す表示などはどこにもなかったのである。
「あれは、高島平からついてきたお化けだったのよ!」
またこれは別の話。
自殺の名所という名につられてネタにつまったテレビ局のスタッフが、この団地を訪れたのである。当時、売り出し中の岡田有希子を起用して、この場所をルポするという苦しまぎれのお手軽企画だった。
だが、その撮影は予想に反して難航をきわめたのだった。
まず、ベテランカメラマンのA氏が撮影中に頭痛を訴えてリタイアした。普段、どんな苛酷な撮影にも根をあげない職人肌のカメラマンだっただけに、みんなはしきりに不思議がった。仕方なく、アシスタントのB氏がカメラを持ち替えて撮影をはじめたのだが、今度はそのB氏も気分の悪さを訴えはじめたのだ。
そういうわけで、しばらくは団地の屋上で休憩ということになったのだが、そのうち、岡田有希子の様子がおかしくなった。何もしていないのに急に笑いだしたり、そうかと思えば急に泣きだしたり…。
これにはマネージャーもすっかりおろおろしてしまい、「こんなところにはいたくない。早く終わりにしよう」ということでそそくさと撮影を終えて局に帰ってきたのである。
あとになってそのテープの編集をしたスタッフは、モニターを見て度肝をぬかれた。なんと、岡田有希子の背後に若い女の幽霊が、最初から最後までおぶさるようにしてしがみついていたのだ。そして、その岡田有希子は、撮影した翌日から原因不明の熱におかされ入院し、退院してからは自宅のマンションの屋上から飛び降りて自殺をしてしまった。遺書らしい遺書はなかったが、入院中のベッドの中で、ずっと「殺される!」といううわ言を叫んでいたという。
現在、その高島平団地は、自殺防止の対策として、屋上と外階段のすべてに鉄フェンスが敷かれ、窓には10センチ程度しか開かないように固く封印されている。
そのせいか、ここのところ自殺騒ぎは2~3年に1度という程度だという。つまり、鉄のフェンスは、自殺志願者を見事にシャットアウトしたわけだが、ある意味でそれは幽霊の出現にも効果を発揮しているようだ。最近、ここでの幽霊談はめっきり減っているのである。
posted by お化けの坂野 at 16:29|
Comment(0)
|
日記
|